『ヤクザと憲法』を観て

 

 「ヤクザ」と聞いて何をイメージするだろう。この映画は、大阪にある指定暴力団事務所の日常を、およそ100日・500時間以上密着取材して作られたドキュメンタリーである。この映画には、ドンパチやるような「ヤクザ映画っぽい」シーンはない。事務所での日常生活、居酒屋でおかみと談笑する組長、ダウンジャケットに肩掛けバックで選挙の投票をする組長、事務所に寝泊まりして掃除や洗濯、食事などをすべてやるおとなしそうな部屋住み。普段着で金欠を嘆き、墓の掃除をし、二人で紅白を見ながら酔っ払って年を越す。ごくありふれた日常が撮られていた。

 「ヤクザの人権」を考えさせられるシーンが印象に残る。ヤクザだからという理由で実害を受けた事例を集める会長。ヤクザは保険に入れない、銀行口座も作れない。親がヤクザだからという理由で子どもが幼稚園の入園を拒否される。自動車保険の交渉がこじれると詐欺未遂などで逮捕されることもある。「ヤクザだから」といって、こんなことが許されていいのだろうか。少し前、ヤクザの妻がきちんとお金を払って車を買い、それに乗っていただけで「詐欺」とされた異常な逮捕がニュースになっていた。

 暴力団対策法が施行された1991年頃、その是非を取り上げたテレビの討論番組などには、現役の暴力団幹部も出演していたそうだ。ところが、警察の主導で暴力団排除条例の整備が全国で進んだ2012年頃になると、その話題すら取り上げられなくなった。暴対法や排除条例の是非を議論すること自体、暴力団を擁護するのかといった批判を浴びるらしい。
 憲法第14条はこう定めている。
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」この憲法に照らし合わせてその是非を議論すること、当事者の声を聞くことすらタブーとする社会に変わってしまった。

 「ヤクザ=生活を脅かす」というイメージを持っている人がいるかもしれない。「生活を脅かすものは排除したい」という気持ちを持つかもしれない。でも、こんなやり方でいいのだろうか。「ヤクザだから仕方ない」のか。そもそもヤクザという存在を生み出している社会構造に問題はないのか。食べていくためにヤクザをやらざるを得ない「社会的弱者」に対する人権侵害について、また、少数派を排除しようとする空気が近年強まっていることについて、なぜもっと声が上がらないのか。

 「ヤクザだから」を許せば、次はもっと他の少数派の人たちに対して「○○だから」となりはしないか。この問題は決して人ごとではない。

 最後にもうひとつ、印象に残ったシーンを紹介して、このレビューを終える。
「だったらヤクザをやめればいいのに。」
 誰もが思いつくであろうこの問いを問われた組長は、こう応えた。
「どこで受け入れてくれる?」

 

『ヤクザと憲法』2015年/ 96 分/日本/東海テレビ放送

 

 

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