独裁者

 

人類とはお互いに助け合うもの

 

チャップリンがトメニアの独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋との2役に扮し、時の独裁者ヒトラーをパロディ化し、ファシストを痛烈に批判した作品。ラストの演説シーンは、映画の常識を覆す名シーンとして映画史に刻み込まれている。チャップリン初の完全トーキー作品でもある。例によって、製作・脚本・監督・主演はチャップリン自身。

 

彼が作るから喜劇だろうと思われるかもしれないが、これは悲劇である。もちろん、そこかしこに観るものを笑いに引き込む場面もある。古典的な言い方をすれば悲喜劇だろうか。全体主義の国に住む良識のある人々の苦難の物語であり、人間性を破壊してしまう憎むべき抑圧とそれを作り出す独裁者の膨れ上がったうぬぼれと狂気を描き出している。もちろんヒトラーがモチーフになっている。

 

話の筋は簡単だ。ユダヤ人の床屋が記憶喪失になって戦争から彼の店のある想像上の街(明らかにベルリンを意識している)に戻ってくる。憲兵隊が街をパトロールし、ユダヤ人が迫害される中、床屋は無謀にも抵抗し、打ちのめされて隣国に送られることになる。ところが、その途中で妄想狂的な独裁者のヒンケルと瓜二つの床屋は、時の統治者と間違われ、演壇に押し上げられ、演説をする破目に陥る。そこで、人間的な優しさ、理性、人類愛を訴える情熱的なスピーチを行うのである。

良心的な人物と邪悪な人物の対比―どちらもチャップリンによって演じられているのだが―は、喜劇的な要素を持ち合わせながら、根底には悲しみがある。床屋に扮するわれらがチャップリンは、ドタドタ歩き・ブカブカパンツ・口ひげ・山高帽のいつものスタイル。たたかれ、押しやられながらたくましく立ち上がる。独裁者を演じるチャップリンはその天才的なパントマイムの手法でアドルフ・ヒトラーを徹底的に風刺する。

チャップリンが本来持っているものであろう誠実な訴えがこの映画を素晴らしいものにしている。それは、勇気と信念と人類愛。最後の演説は以下のように始まる。

 

「皇帝などになりたくない。支配や征服などしたくない。できれば手助けがしたい。人類とはお互いに助け合うもの。他人の不幸より幸福を望み、憎しみ合うべきではない。地球には全人類を包む豊かさがある。自由で美しくあるべき人生は、貪欲により汚され、憎悪が世界を覆い、流血と惨めさが残った。スピードが自由を奪った。機械により貧富の差が生まれ、知識を得た人類は優しさを失くし、感情を無視した思想が人間性を失わせた。知識より大事なのは、思いやりと優しさ。それがなければ機械も同然だ・・・」

 

1940年といえば、65年前の作品であるが、その白黒の画面から伝わる笑いと悲しみそして情熱は、私たちに、人間にとって本当に大切なものは時代を超えて変わらないと教えてくれる。

 

1933年に政権の座に就いたヒトラーは、反対派を暴力によって弾圧し、恐怖政治を敷いた。チャップリンは、1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発したその月にこの映画の撮影を開始し、ドイツがフランスを降伏させた1940年に完成させた。(G)

 

1940年・米・126分

 

 

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