V フォー・ヴェンデッタ

 

11月5日を思い出せ

 

1605年、国王ジェームズ1世のプロテスタント政策に不満を持っていたカトリック教徒のガイ・フォークスとその共謀者は、国会議事堂を火薬で爆破して、ジェームズ1世と上下両議院の議員を殺害しようとした。しかし、これは11月5日議会開始前に見つかり、翌年ガイ・フォークスと共謀者は反逆罪で処刑される。

陰謀を未然に防いだこの日を祝して11月5日は「ガイ・フォークス・デイ」となった。400年以上もたった現在でもイングランドでは、花火や大篝火で祝っている。子どもたちがガイと呼ばれる人形を持って街を練り歩く。ぼろぼろの服を着た「ガイ」は篝火で焼かれる。当然”悪者“であるガイ・フォークスを処刑する意味がある。

 

「V フォー・ヴェンデッタ」の舞台は全体主義国家となった近未来のイギリス。当局からテロリスト呼ばわりされながら革命を試みる“V”。そのVに寄り添う女性イヴィー。彼女の人生はVと出会ったことで大きく変わっていく。ヴェンデッタは、イタリア語で「復讐」の意。

不正と暴虐にまみれた政府から英国民を解放するため、Vは国の圧制を糾弾し、同胞の市民に国会議事堂前に集結するよう呼びかける。決行は11月5日。“ガイ・フォークス・デイ”だ。

フォークスの反逆精神を、Vは胸に刻む。400年前、フォークスが遂げられなかった国会議事堂爆破計画は、チャイコフスキーをBGMに芸術的な犯罪を誇示する知的で過激なこの男に引き継がれていくのか?

 

映画の台詞が素晴らしい。よく練られ、ウィットに富み、誠実で押し付けがましくなく、知的だがもったいぶったところがない。ふつう、アクション映画にこんな高いレベルの台詞は期待しない。しかし、物語が進むうちに気付くのだ、これはただのアクション映画ではないということを。現代社会の抱える問題を提起する、きわめて政治性の強いお話なのである。

“V”に扮するヒューゴ・ウィーヴィングの演技が素晴らしい。映画の最初からあなたの心をつかむこと間違いない。彼の演技は映画を通して輝き続ける。冷酷な殺人を繰り返す一方、優雅な教養人でもあるVを、一度も仮面を外すことなく、しぐさと声色だけで色気たっぷりに演じる。

そして、映像が素晴らしい。すべてが美しく描き出される。暗さの中に力強い鮮やかさがある。一流のスタッフによる撮影技術を存分に楽しめる。

 

Vは言う、「国民が政府を恐れるべきではない。政府が国民を恐れるべきなのだ。」

国家による情報統制が完全に機能する社会。全てのニュースは国家を通して流され、国民はいつも監視されているように感じる社会。自由意志が阻害される社会。

9月11日のテロ以降、安全確保のためには個人の自由やプライバシーに一定の制限をかけてもよいという機運が広がっている。多くの人が監視されることによって自分の安全が確保されると考えている。

監視されることによる安心感というのは、治安が悪くなった社会では自然な感情なのかもしれない。だが、やはり違和感を禁じえない。

老子の言葉に、次のようなものがある。

「賢人は、国を治めるとき、人々の心を空にし、その腹をいっぱいにする。人々の意思を弱め、しかし身体は丈夫にさせる。民を無知の状態に保ち、欲を刺激することをしないでおく。そして、頭の良いものがあえて行動を起こさないよう注意深く監視するのだ」

無知な大衆の従順な屈従こそ、独裁的統治者の求めるユートピアなのだ。

そして、それを阻止するのは、善悪の定まらない救済者にしてテロリスト、「V」のような男なのかもしれない。

前代未聞の革命エンターテインメント。国家の不正や弾圧という現代社会的な問題を投げかけながら、純粋に娯楽映画としても楽しめる異色作。「Vフォー・ヴェンデッタ」は永久に名作として残る映画ではないだろうか。

 

 

05年・米=独・132分・ワーナー・ブラザース配給

 

 

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