市民ケーン

 

金・権力・愛

1941年度のゴールデン・グローブ賞をはじめ多くの賞を受賞した作品。製作されて50年以上経過している今日でも映画史上に燦然と輝く芸術性に富んだ傑作である。監督と主演を務めたオーソン・ウェルズは、この一作で永遠に映画史に名を残すことになった。

オーソン・ウェルズと言えば、「宇宙戦争」のラジオ・ドラマを製作し、放送の中で、火星人来襲のニュース速報を挿入、そのリアルさに当時の聴衆の多くが本当の出来事だと思い込み、アメリカ全土でパニックを引き起こしたというエピソードがある。この事件によって、ウェルズの才能は高く評価され、映画界入りを果たす。製作、監督、主演、脚本を兼ねた処女作が、実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにした「市民ケーン」である。斬新な映像表現、登場人物の巧みな人間描写と複雑な物語構成は高く評価され、映画史上ベストワンの傑作と評されている。

億万長者の新聞業界の大物チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)が、大豪邸でただ一人息をひきとった。「ばらのつぼみ(rosebud)」という一言を残して。この言葉の意味を探ろうと、かつてケーンと仕事をした人々や一緒に暮らしていた人々に話を聞くという形で物語は進められる。しかし、ケーンの生涯は明らかになってゆくが、「ばらのつぼみ」の謎は解き明かされない。

映画を観ていない方のために、「ばらのつぼみ」が何であるかはここでは言及しない。ただ言えることは、あなたが「ばらのつぼみ」に出会ったとき、ケーンという男を理解できるということだ。不幸な成功者が自分の持てるものすべてを投げ出しても手に入れたいものがあるという心情がわかるのではないか。

ケーンは、金の力で欲しいものすべてを手に入れ、そしてすべてを失った。金と愛ではどちらが大切か、などとよく引き合いに出される二者であるが、どちらもそこそこあるに越したことはないというのが大方の見解であろう。「金があれば手に入らないものはない」と豪語したIT関連企業の社長の現在の境遇を考えれば、一つのものに固執しすぎることの愚かさは明白である。そして、金だけで愛情表現することの残酷さも枚挙に暇がない。

愛があるのに、伝わらない。これは、現代の多くの家庭で見られることではないだろうか。親は子どもへの愛を持っている。本当は愛しているのに、親としての強さを失い、ノイローゼになり虐待してしまう親もいる。愛情表現の不器用な親もいる。愛を受け止めるのが下手な子どももいるかもしれない。

「愛する」ということは、スキンシップをとることであり、励ましたり、ほめたり、言葉かけをすることであり、一緒に楽しい時間を過ごすことであり、日常的に気にかけ、見守ることである。それは、片手間にできることではない。
心が留守になっていては、決して相手に伝わらないし、すぐに見抜かれてしまう。時間をかけ、気持ちを込めることが必要だし、それを厭わないことが「愛する」ことなのだろう。

目の前に子どもたちがいる。十分な時間は取れているだろうか。気持ちは離れていないだろうか。ちょっと気障な言い方かもしれないが、教育は「愛」なくして語れない。(G)

41年・米・119分・ATG配給

 

 

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